見えているからこそ、見えないことがある。
聞こえるからこそ、聞こえないことがある。
何かを得た時、「現状」を継続しようとした時。
彼女も、自分も、それを同じ場所から見ているのだろうか。
狐灯亭が消えてから三年。
季節は秋を迎えていた。
*** + ***
「ただいまー」
午後九時。金曜の夜、いつもより遅い時刻に家に帰る。
「おかえりなさーい」
小さな金色の塊が部屋から姿を現した。
靴を脱ぎながら、歩いてくるマリエを抱きとめる。
人から狐へと変わった彼女は、もう簡単に抱き上げられるサイズになっていた。
「今日は、トンカツにしたの! でも、お風呂入る? 用意はできてるけど」
いつもの調子で、マリエはこちらを見ながら話す。
「風呂は明日の朝入るからいいや」
「トンカツか。この前買ったフライヤー、気に入った?」
「リョータ君が油鍋は危ないっていうから買ったけど、ホント安全で気に入っちゃった!」
「マリエはいつも危機感ないよね」
「すこ〜しはあるわよ? じゃあ、すぐ揚げるから待っててね」
キッチンに着くと、マリエはピョン、と腕の中からキッチン台の上に降り、エプロンを身に着けた。
その様子を横目で見ながら、スーツを脱ぎはじめた。
マリエは、狐と同じ身体でも、人間と同じように大体のことをこなす。
もちろん調理器具も軽いものにしたし、人間の手で持つようにデザインされた器具を狐の手に合わせるように、改造を加えた個所もある。
しかし、揚げ物は毛皮に引火しやすく、見ているこちらがヒヤヒヤして仕方がないので、この前電気フライヤーを買った。
もっとも彼女の言い分だと、エプロンをしているし、取っ手があるザルで揚げるから大丈夫なのに、とあまり危険視はしていないようだったが。
顔を洗ってパンツ一丁で部屋に戻ると、パチパチとトンカツを揚げるいい音がしていた。
たたんである寝巻に着替え、部屋の中をふと見まわすと、パソコンが点いていることに気付いた。
壁紙が、大きな木が植えてある小高い丘の写真に変更してある。
「この壁紙、いいね」
でも、こういう木、どっかで見た気がするな……。TVCMかな。
「むこうにいた時、こんな木が植えてあるところがあったの。それを思い出したら懐かしくって、変えちゃった」
「そうなんだ」
やっぱり、帰りたいとかあるのかな。
まぁ……あるよな……流石に。
でも、聞きにくいよな。帰ることができるのなら、言わなくても聞いてくるだろうし。
「ここ、どこだろうね? 外国じゃなかったら、明日にでも行けるんだけど」
「え〜? 別に、行きたいと思って壁紙にしたんじゃないから、分からないわよ」
笑いながらマリエは皿をカウンターに置く。
「できたわよ。とんかつにサラダと炒め物。飲み物は何が良い?」
「金曜だし、酒が飲みたいけど……甘いのは嫌かな」
「じゃあ、チリウォッカはどう? 私も飲むし。トマトジュースで割っても美味しいわよ」
「いいね。じゃあそれで」
二人分のワンプレートを手に持ち、テーブルにかける。
脇の棚には、製氷機付きの小型の冷蔵庫と各種の酒が置いてあるので、簡単に飲み物が取り出せる。
冷蔵庫からトマトジュースを取り出して、前もってふたを開けておいた。
これも、マリエとの生活で変わったことのひとつだ。
生活は作っていくものなんだな、とマリエと住むようになり、よく思う。
彼女は小さな体で、できないならできるようにすることや、住み良いものにするために労を惜しまない。
だからこそ、自分も変化をいいものとして、受け入れるようになっていた。
「じゃ、いただきます」
マリエが席に着いたのを確認してから言うと、「はい、どうぞ」とマリエがニッコリと笑う。
彼女は、食事に手を付ける前に棚からグラスとボトルを取り出すと、器用にトマトジュースとチリウォッカを割った。
「どうぞ〜☆」
「ありがと」
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
流れるように、乾杯をすると、マリエのグラスに入ったストローが、氷と共にカラリと揺れた。
金曜の夜は、こうやって落ち着いて酒を飲むことが好きだ。
食事が出てきて、こうやって会話しながら酒を飲めることが、楽しいと思える時が来るとは、なんか不思議だ。
今日は、色々帰宅途中に見てきて、気分が少々昂っているのもあると思うが、いつもより更に楽しい。
「なんかいいことあったの?」
「いや、別にないけどさ……ところで明日、ちょっと行きたいところあるんだけど、大丈夫?」
とんかつを食べながら言うと、マリエはストローでチリウォッカを飲むのを止めて、首をかしげる。
「明日? 別にいいけど……私が行ってもいいの?」
「ダメなことないだろ」
「……それは、そうだけど」
「いつもどおり、ちょっと遠くにいこうよ」
マリエの生活圏は、この家の中だけで完結している。
好機の目でさらされること、狐だと言われることが嫌で、外にでかけることもできず、買い物にも行けない。
彼女が思い切り外で動けるのは、夜の散歩と、時々郊外に連れ出す時ぐらいだ。
彼女は、狐に見えるが、完全な狐ではないのだから、野山を駆け回る趣味はない。
しかし、人と会うことを避けているので、街中ではなく、いつも郊外へ出かけることにしている。
傷つくことを避けるためには仕方ないとは思うが、三年かけて折り合いをつけた結果、こうなってしまった。
「ええ、そうね。明日、楽しみだわ」
僕の言葉で悟ったのか、マリエがこちらをむいて、ニコッと笑った。
** + **
次の日、昼前から車に乗って、郊外の公園に向かった。
住んでいる場所から離れているが、会社と自宅に少し足したような場所に位置しているため、そんなに遠くはない。
英国風の公園は、女性が喜びそうなオシャレな感じではあったが、都心から離れており、有料のためか人は少なかった。
整備された迷路のような一メートル幅の道の両側に、コスモスの花が咲いている。
「秋桜、綺麗。なんかウキウキしちゃうわね」
「だね。想像したより綺麗でビックリしたよ」
背の高い秋桜の花は、マリエの姿を隠して彼女が誰かを気にすることはない。
そもそも、気にする必要はないのだが、彼女の気が楽になるなら、そのほうがいい。
彼女の歩く速さに合わせて、ゆっくりと歩く。
「お弁当、どこで食べる?」
「えっと、その前になんか飲まない?」
「飲み物?」
「そこに喫茶店あるし、ほら」
僕の言葉に、マリエは戸惑っているようだった。
「リョータ君、でも」
「大丈夫だって。別に。マリエさん、何が飲みたい?」
「えっ……え、ええと……カフェ、ラテ……かな」
「分かった」
遠慮がちに目を伏せるマリエと共に、小奇麗な喫茶店に入る。
暗い木製の柱に、白い壁。店内はクラシカルな曲が、少し大きめにかかっていた。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
メイド服を着た店員が、落ち着いた様子で話しかけてきた。
マリエを見たが、何でもないように微笑み、僕たちを店の奥に案内してくれる。
案内された席は、四人掛けのソファ席だった。
「マリエ、座って」
戸惑うマリエにソファに座るよう促すと、マリエは怪訝な顔をしたまま、ソファに座った。
「カフェラテ二つ」
注文を言うと、店員は「かしこまりました」と言って、キッチンの方へ歩いて行った。
「これ……どうなっているの?」
理解ができないという様子で、ヒソヒソとマリエが話しかけてきた。
普通はペットは店内に入れないし、ソファにも座らせてもらえないので、驚いているのだろう。
「詳しくは後で話すけど、こういうことに慣れているっていうか……まぁ気にしなくていいよ」
「気にしないはず、ないじゃない」
「ここ、カフェインレスコーヒーだけど、美味しいらしいよ」
わざと話をそらすように、話題を変えた。
「美味しいのは嬉しいけど。落ち着かないわ」
そりゃそうだよね。
「まぁ……でも、こうやってお茶できるなんて、なんか嬉しいけど。変な感じ」
マリエは、ふてくされた様な、照れたような様子で、窓の外を見た。
「こういう店、来たことないもんな」
「そうねぇ。 だから驚いちゃってるんだけど」
マリエが人間なら、普通に街の中を歩いて喫茶店にも入り、こんなふうにヒソヒソ話すこともなかっただろう。
そんなことは分かっている。
しかし、現実は彼女は見た目的には狐であり、彼女を人間だと認識する人はいない。それが現実だ。
店内のBGMが大きくなければ、人間の言葉で話すマリエを見て、驚く人もいるだろう。
それが現実なのだ。
だが、あまり周囲を気にしすぎるのも問題だし、彼女が自然体でいられるようにしなければ、辛いだけだ。
マリエが人間であったらなんて考えるのは、彼女にとって失礼なことだ。
彼女は、彼女であるからこそ、この姿で、僕が彼女に傍にいてほしいと願ったから、ここに残ったのだ。
しかし、現実を見なければ、現状を変えることすらできないのだと、最近考えるようになった。
現状を甘んじれば、何かが変わるなんて戯言だ。
変えたいと思わなければ、何も変わらない。
それを思い知った三年だった。
「お待たせいたしました」
店員が僕とマリエの前にカフェラテを置き、キッチンの方に戻っていく。
店の中には、よく見れば二、三組の客がいるが、話に花を咲かせていて、他人に興味がないようだった。
「マリエ、砂糖、何杯?」
「三杯お願い」
「オッケー」
カフェラテに砂糖を入れて混ぜると、マリエの前にカップを戻す。
自分のカップにも砂糖を入れていると、マリエがふふ、と笑った。
「なんか、三年前、思い出しちゃうわね」
「……三年前って、狐灯亭があった時?」
「ええ。あれから三年も経っちゃったのね。早かったわ」
「……後悔してる?」
「後悔?」
マリエが首を傾げた。
「だって、ろくに外に出られない感じだしさ」
僕の言葉を聞くと、マリエは珈琲をコクリと飲んで、息をつく。
「後悔するくらいなら、この世界に残っていないわ」
彼女はそう言った後に、再度カップに口をつけた。
「それとも、リョータ君は後悔しているとでもいうの?」
「そ、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、変な心配しなくていいと思うわ」
彼女は、そういうと、カップの中に入った珈琲を見つめた後に、窓の外を見る。
窓の外では、秋桜が揺れていた。
** + **
喫茶店を出て、公園の中を歩く。
時々犬を連れている人がいたが、会釈する程度で、わざわざ近寄ってくるという人間はいなかった。
「なんだか、ここの公園にいる人たち、不思議な感じね」
切り立った丘に来たあたりで、ぽつりとマリエが呟いた。
拓けた丘を降りた雑木林の向こうに街が見えており、丘の上には、小さなチャペルがある。
「不思議?」
「なんか、慣れ合う感じがないっていうか……変な感じ」
「人間が公園に行っても、いちいちコミュニケーション取ろうと思わないだろ」
「そうだけど、普通、ペットを飼っている人って……」
そこまで言うと、マリエは口を噤んだ。
ペットが好きな人は、ペットを飼っている人に話しかけやすいし、子供が好きな人は、子供がいる人に話しかけやすい。
少なくとも、今まであった人達は損な人達ばかりだったので、マリエがそう思うのも無理はない。
「ここから見える、そこの街さ。ちょっと変わっているんだよ」
腰を下ろして、丘の下を指さした。
「変わっている?」
「動物がペットじゃなくて、家族だと考えているだって人が多いんだってさ。変わった街だって紹介されていたんだよ」
「家族と一緒に公園に行っても、赤の他人に話しかける人はいないだろ。だから、特別に扱われることがないんだ」
「そんなところが……あるのね」
マリエが、丘の下に広がる街を、じっと見つめる。
そんな彼女を見ながら、僕は、前もって考えていた言葉を告げた。
「ここに、引っ越さないか?」
僕の言葉に、マリエは驚いたようにこちらを見る。
「もちろん、自分たちが望んでいる価値観ばかりを持っている人達がいるわけじゃないとは思う」
「だけど、自分たちが欲しい環境を望んでいる人たちが多い地域なら、今よりもっと、住みやすくはなるだろ?」
ずっと、三年間考えていたことだった。
僕たちは、どうして悪いことをしていないのに、傷つかないように人を避けて生きていかなければならないのだろうかと。
変わったものを見るように、自分を見ないでほしいと言ったところで、それは無理なのだ。
色が沢山混じる砂利の中で、綺麗な石でも変わった色の石が入れば目立つように。
その色が好きな人は、それを手に取るように。
誰が悪いというわけではない。どれも綺麗な石だが、目立つからこそ気になるようなものなのだ。
石に意識があり、傷つくというのなら、その石は似た色の石の中に隠すしかない。
否定せずに受け入れることで、楽になることもあるのではないだろうか。
ポケットから、小さな布袋を、ふたつ取り出す。
「琥珀石は、傍にいるんだから、もうその役割を終えただろ? だから、ふたつに分けてもらった」
袋の中には、指輪の形をした琥珀石を金の鎖に通してネックレスにしたものが入っていた。
一つを自分の首にかけて、もう一つを、両手で持つと、マリエの前に差し出す。
「色々考えたけど、これ以外、思い浮かばなかったんだよ。あんまりかっこよくないけどさ」
「リョータ君……」
「三年もあんな状態で放っておいてごめん……これからも、一緒にいてください」
小さな首に、花飾りを飾るように、ネックレスをかける。
マリエは、僕を見て、自分を確認するように下を見た後、また顔を上げた。
「ええ……もちろん……死が、二人を別つまで、ね」
彼女は、泣きそうな顔で微笑んで、しっぽを揺らす。
丘の上にあるチャペルが鳴り響く。
「時間指定で鳴らすように頼んだのに、なんかタイミング間違えた感じするな」
丘に来るまでは時間を見ていたのだが、なかなか思ったようには上手くいかないものだ。
渡す前に鳴るはずだったんだけどな。
「私、今だって、十分感動してるわ」
マリエは、そんな自分を見て、穏やかに微笑んだ。
「そっかー。良かった」
喜んでくれるなら、サプライズも無駄じゃなかったよなー。
「ね、リョータ君。私も、いい報告があるの」
「いい報告?」
「私、ちょっとだけ人間になれるかもしれないわ」
「えっ、まじで」
重大報告じゃないか!
「こっちの植物はあっちの植物とは違うから、もしかしたらって感じの段階だし、時間も短いとは思うけど」
「それでも実現したら凄いなぁ……普通の科学者より凄くない?」
「私はこっちの生き物とは違うし、色々この世界の常識では計れないのよ。まぁでも、三年頑張ったかいがあったってものだわ」
「久しぶりにあのマリエに会えるかと思うとなんか不思議な感じだなぁ。楽しみにしてるよ」
「ええ。せっかく狐の姿で出歩けるようになったのに、また色々起きちゃうかもしれないわね」
悪戯を考えた子供のように、マリエが笑う。
「魔法少女みたいな感じでいいと思うけどね」
「あは、それを言うなら、奥様は魔女でしょ?」
「まぁ魔女でも狐でも、マリエが楽しければ、それでいいよ」
「リョータ君が傍にいれば、私はどこだって、いつだって楽しいわ」
嬉しそうにマリエが跳ねると、そのままチャペルの方に走っていく。
首にかけたネックレスが、キラリと光る。
でも、今の自分にはその輝きより、マリエの毛並みの方が、輝いているように見えた。
「リョータ君! ちょっと来て、あっちに、凄いものがあるわよ!」
遠くで、マリエが驚き気味に僕を呼んだ。
「何をそんなに慌てて……」
立ち上がり、足早にマリエの元に向かう。
丘を登りきると、チャペルの向こう側に、パソコンの壁紙にあった木と、似た木が植えてあった。
「どっかで見たと思ったら、見たのここかよ〜!」
「すっごい偶然!」
「偶然だけどさー、知ってたら、あそこで指輪渡したよ! その方が感動するじゃんかー!」
「…………」
マリエが、何も言わずに僕の顔を見上げる。
「えっ、何?」
「リョータ君って、馬鹿ねっ」
「えー?」
「私は、さっきもとっても感動したし、サプライズプレゼントを何回も貰った気分なのに」
マリエはそういうと、にっこりと笑って、軽快に歩きはじめる。
その後姿を見て、僕も笑って追いかけた。
遠くに見える大きな木に向かって、並んで歩いていく。
秋風の中、チャペルの鐘がもう一度鳴り響いた。
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