【Happy end after】





人間の体を捨てた時。
全てはゼロに戻ったと考えていた。

身体を、経験を、すべて捨てたことでそれなりの苦労をした。
苦労しなかったと言えば嘘になるし、正直、大変なことばかりだった。

慣れない手足に、足りない道具。
この世界にはミシンがないし、電気がない。
狐灯亭のような空間が作ることができたのに、簡単にできないのか……と思ったが、マリエによれば幻だからこそすぐに作れたようなもので、常に保つのは難しいとのことだ。

時代が逆行したような世界では、知識があるからこそ人間と同じような生活をしていたが、近代化、量産化とは程遠いように感じた。
知識や文化を覚えて、こちらの世界に馴染むのに時間がかかったが、各家庭が、自分が食べる分の保存食を、自分で作るような、古い英国の田舎と思えば、そう理解に苦しむことはなかった。
……そう、赤毛のアンで読んだ感じの雰囲気だ。
マリエは僕がデザインしたドレスを、すべて手縫いで仕上げたらしい。
僕がこの世界に来て初めてリハビリとして行ったことは、ドレスを作った余り布を、手縫いで現在の狐の姿のマリエの服に合わせて作ることだった。
布地をたっぷりと使ったマリエの服は、初めこそ奇異の目で見られていたようだが、当のマリエは気にせずに着ているので、そのうちに服の依頼を受けるようになった。
自分の趣味で金を稼げるようになったことは、思わぬ幸運であった。

とはいえ、手縫いはキツイ。慣れたところでキツイ。
もちろん、ミシンのようなものは開発されていたが、手縫いの延長のようなもので、効率は良くなかった。
布地が多い分、縫えば縫うほど、相手に喜ばれない値段になっていってしまうのは、悩みの種だった。

仕方がないので、最初の二年は、ちょくちょく人間界に入り込み、手回しミシンを探していた。
それでも見つからないので、三年目のつい最近、悩んだ末、元同僚の郵便受けに手回しのミシンを探してくれないかと手紙と共に、琥珀石のネックレスを代金として投函した。
返事の手紙は、元同僚の家のドアに挟まっていた。
近状とともに、ミシンを手配してくれたこと、それがいつ頃届くかが書いてあった。
正直、ミシンが手に入ることより、手紙が変な文字になったのに理解してもらえたことや、金ではないのに手配してくれたことのほうが、嬉しかった。

そして今日、ミシンを受け渡しとして、同僚の部屋の前に置いてもらうことになっていた。

「一緒にいかなくても大丈夫?」

赤ん坊をあやしながら、心配そうにマリエが聞いてくる。
マリエの足元には、二歳になる双子のトリィとネネィが、ひたすら人形をぶつけまくる遊びをしていた。

「部屋は一階で夜だし、台車を持っていくから大丈夫だろ」

「でも、ミシンって重いんでしょう? なにか事故に巻き込まれたら……」

「重いって言っても、大した重さじゃないし、この体にも慣れたから大丈夫だろ。マリエは娘を寝かしておいてくれよ」

正直、三人の子供を誰かを預けられるとしても、何があるか分からないのにマリエを連れていく方がマズいと思う。

「……分かったわ」

納得したように、マリエが息をつく。

「すぐ使えるようにできれば、仕事が楽になるかもなー」

「デザイナーじゃなくて、服を作るようになるなんて不思議よね」

「はは、似たようなもんだけどな」

それにしても、この世界に来てまで、服を作ることになるとは思わなかったな……。
結局、自分の根底にあるもんなんて変わらないってことか。
失ったから、違うことをやるというのも違うとは思うが、なんだか、芸がない感じもするよな。

「じゃ、そろそろ行ってくるよ」

考えるのをやめて、棚から画鋲に似たピンを取り出すと、裏口として設置されたドアに歩いていく。
ドアの近くには、木製の台車が置いてあった。

何度も人間界には行ったが、あまり安全とは言えないことは分かっているつもりだ。
二年ほどマリエが頑張って、人間界に繋ぐことは安定してはきたが、まだ安心できるものではない。
三年前、マリエは不安定な状況の中、帰れないことも想定してこちらに来た。
だから、彼女が心配するのは、仕方のないことだ。

まぁ、これが終われば、あんまり行かなくても済むしな。

元同僚の家の近くの公園をイメージして、ピンを扉に突き立てる。
瞬間、扉の向こうから光が溢れた。

「いってらっしゃい」

ドアを開けると、マリエに後ろから声をかけられた。
振り返ると、しゃがんだマリエの前で、トリィとネネェが不思議そうにこちらを見ていた。

「行ってくるよ」

ドアの向こうに広がった暗闇に、台車を引いて歩いていく。
扉を閉めてしまえば、もうそこは、静かな公園だった。

 

 

** + **

 

 

記憶が薄れてしまって、あまり違和感がないが、やはり人間界に来ると自分の背が縮んだような感覚に陥る。

……まぁ、全てが人間サイズにできているんだから、当たり前だけど。

全てが人間のサイズに作られていると、人間だった時には気づかなかったが、離れてみると違和感があるものだ。
公園を出て、元同僚の家まで、ゆっくりと歩いていく。
アスファルトは固く、冷たい。
広く感じる住宅地の道には、時々遠くで犬の声が聞こえる程度で、台車のゴロゴロという音が目立つ程度に静かだった。

アパートの入り口まで来ると、元同僚の部屋の前に、段ボール箱が置いてあるのが見えた。
手回しミシンなので、足踏みミシンより小型で、台車に乗せるのに問題なさそうだ。
本当は足踏みミシンが良かったが、狐の姿では、持ち運ぶのに限度があった。

周囲を確認して、ドアの前まで移動する。
台車をコンクリートの通路のヘリにつけ、段ボールを部屋の前から頭で押す。
なかなか、段ボールは重かった。

「乗せてやるよ」

背後で、声がした。

……この声は。

恐る恐る、後ろを振り返ると、そこには元同僚がいた。

「お前、前から手紙を運んできてただろ? 知ってるよ」

見られていたのか。

「リョータはお前の飼い主なのか?」

答えられるわけがない。

僕は、台車の横につけてあるポーチから、前もって書いておいた手紙を取り出すと、狐らしく口に咥えて、元同僚に渡した。

「ま、答えなくてもいいよ。手紙、ありがとな」

元同僚は、開封することなく、ポケットの中に手紙を入れて、段ボール箱を台車に乗せた。

「俺さ、お前の飼い主と友達なんだ。アイツがどう思っているかは知らないけど」

「だから、こういう風に頼ってくれて、連絡が取れるようになって、正直嬉しいんだ。雲隠れみたいに行方不明になったから、もしかして死んだのかなって思ってたしさ」

そういうと、元同僚……いや、加藤は、ワイシャツのポケットから、何かを取り出した。

「これ。返すよ。俺さ、あいつがコレを気に入ってたの知ってんだよ。だから貰えない」

手の中にあったのは、琥珀石だった。

「俺、今もあの会社で働き続けてるよ。だから、ミシンが要るのなら、そのくらい用意できるんだ」

「あの時、お前に助けてもらわなかったら、俺、あの会社にいられなかったかもしれない。だから恩返しだと思って気にしなくていい」

同僚はそう言いながら、僕の首に琥珀石のネックレスをかけた。

「それでも……それでもお前が気になるというなら、また、ここに遊びに来い。詳しいことは分かんないけどさ、いいだろ?」

飼われている狐だと思っているはずなのに、なぜ狐の僕に話しかけるのだろう。
答えられるはずもなく、狐の鳴き声さえ分からなかったので、そのままジッと顔を見て、頭を下げる。
この程度の意思表示しか、できなかった。

加藤が友達だと言っているのは、もういない過去の人間の僕だ。
その自分とは、手紙を通じてしか、やりとりはできない。
だから遊びに行っても、今までのようなやりとりはできるはずがないんだ。

ありがとう、という言葉を飲みこんで、頭を上げると、台車の紐を胴体金具につける。
加藤に背を向けると、重い台車を引くために、足を進めた。

「知ってるかもしれないけどさ」

背後から聞こえた声に、足を止める。

「リョータって、返事に困ると、肩を竦める癖があるんだよ」

「だから、勘で話しているけど、多分、合っていると思うんだ。凄いアホなこと言ってるって思ってるけどさ」

「お前、リョータ……だろ?」

最後の言葉は、絞り出すような声だった。

なんで、そんなファンタジーなことを考えられるんだ。
友達が狐になったなんて、思う奴いないだろ。
こいつは馬鹿だ。
前もとんでもない間違いをする頭がぶっ飛んだ奴だとか思ったこともあるけど。本気で馬鹿だ。

……本当に。なんで。

…………。

「また、来るよ」

思わず、言葉が口から出ていた。

後ろは振り返らず、足に力を入れて、走り出す。
加藤の声は聞こえなかった。
後ろで、ガラガラと台車と荷物が揺れた。


この世界の物は、すべて捨てたと思っていた。
いや、人間に戻れなければ、捨てなければいけないと思っていた。
失望されることや、希望を持つことは怖いものだ。
前に進めなくなる。
だからこそ、自分はすべてを捨てていかなければと思っていた。
でも、狐の自分を認めてくれて、僕が僕でいいのであれば、捨てなくてもいいかもしれない。

公園に付いて、ドアノブを見つけると、思い切りドアを開ける。
暖かい光の中に、マリエと子供達が笑っていた。
そして、僕に気付くと、驚いたように笑う。

「おかえりなさい。なんか嬉しそうね。なにかあったの?」

マリエが嬉しそうに駆け寄ってくる。

「ああ、友達と話ができたんだ。あとで話すけどさ……ところで僕って、困ると肩をすくめたりしてる?」

「ふふ、やだ、リョータ君、知らなかったの?」

傍まで来た彼女は、驚いたように微笑んだ。

まったく、知らぬは本人ばかりというか……どこから話し始めればいいんだろうな。

僕は、マリエに笑い返して、光の中に足を踏み入れる。

「ただいま」




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